2005年09月02日

「恥じ」を感じることの大切さ

今さらのはなしなんだけど、商店街って活気がなくなった。
お盆に地元のかつてのメインストリートの近くを通ったのだけど、大型のスーパーを中心に、昔の一方通行の多い狭い道は国道からダイレクトに入れる基幹道路になってしまい、商店街が消えてしまっていた。途中にあった神社が残っていたので、ここはアーケードがあったあの場所だ、という認識がかろうじてできる程の変わりよう。昔のままの姿で残っていた隣の商店街はお盆というのを差し引いても、人の気配がなく、さみしいかぎりだった。
そのかわり郊外型の大規模なショッピングモールはあちこちに出現している。広い駐車スペース、DIYから食品、ドラッグ、家電、衣料まで幅広い商品を複数の店舗で補い合い、すし、ラーメン、ファーストフード、ファミレスと全国にチェーン展開してる食事処もずらりと軒を連ねてる。その敷地内にいけば一日遊んでいられるというかんじ。
実際休日なんて、何かイベントでもあるのかと疑いたくなるほどの盛況ぶり。
車社会であることと、どこも同じように豊富な品揃えと低価格だ、というのが盛況な理由なんだろうなぁ。個人商店に低価格を求めるのは酷だろうし、消費者側からしたら、同じものを買うなら安いほうがいいのだから、客足が遠のくのは仕方ないのか。
だけどお店の親父と話したり、酒屋で情報収集したり、ふかしたての饅頭食べたり、年季の入った喫茶店で、茶のみ老人の午後の語らいを聞きながら珈琲飲んだり、そんな商店街のある暮らしのほうがあたしは好きなんだけどなぁ。

ドライブをしていてもなんだかつまらない景色だなと思う。
だだっぴろい道沿いには同じようなチェーン店のでかい看板やパチンコ屋ばかりが目立っていて、巨大モールがあってと、自分が今どこを走ってるのか同じ景色ばかりでわからなくなりそうになる。店に入ればやたらめったらデカイ声で「いらっしゃいませ〜よ〜こそぉ〜」と連呼。元気が売りです、ってか。でも客の顔なんて見やしない。マニュアルオンリーの没個性の店ばっかり。

わたしが旅を好きな理由は、違う土地に行き、その土地ならではの食べ物を食べ、景色を見て、そこに暮らしている人たちの生活や伝統というか伝わってきた知恵みたいなものを想像したり、土地の人とはなしをしたりして、自分の日常の生活には無いところや共通点を見つけたりするのが楽しいからなんだけど。それはまぁ牧歌的な景色であればいいというんじゃなく、都市のあやしい裏通りなんかも同じように興味津々で潜り込んじゃうんだけど。とにかくその土地土地にあるお国柄っていうのか、それが均一化しているみたいでなんともつまらんのです。

ちとずれるけど、日ごろ買い物をしていると、他人様のマナーというか常識なんでは?ということから逸脱している人たちが目に付く。
スーパーにはたいがい商品を入れて歩けるようにカートが置いてあるんだけど、10歳くらいのガキを乗せるためだけに一台確保して(引っ張ってるのは大概父親)母親はもう一台買い物用に使ってたり。乗り物じゃないからね!
袋詰したら台の上には買い物かごを投げっぱなし、おまけに駐車場までカート持っていくのはいいけど、車の脇に置きっぱなし。他の車にぶつかったりするんじゃないか?と想像できないのかね。
自分で手にとっておきながら、買う気が失せたら元に戻さず、まったく違う場所にポイとその商品を置いたり。(生鮮やひどいと冷凍食品がお菓子だの調味料の棚にあったりする)トマトや桃みたいな痛みやすいやつをさわりまくってぐちょぐちょにしてる人とか。
値下げシールをはがして、別の商品に張り替えたりとか(たまたま見ちゃったのだけど、さすがに注意しました。子連れの主婦でした。子供の見てる前で何考えてんだろ?犯罪じゃん。なんかチッ!ってかんじでどっかいっちゃいましたが)
孫がお菓子売り場で中味を破って食べはじめても、平然として注意もしない人とか。挙げればキリがない。
常識はずれの人で圧倒的に目に付くのが5,60代のおばさん。孫のいる歳だよ。
わたしらくらいの年代の主婦やもっと若い人たちよりも常識ないからびっくりする。そういう人たちは何を食べてんのか、興味があるのでチェックしてみたりするんだけど、惣菜や肉類、冷食、清涼飲料水ばかり買ってる人が多い。
やっぱりね、と思ってしまう。食は人を作るんだよね〜。
そういう感覚の人は毎日行く近所の小さいスーパーより、低価格を売りにしてる大型店でよくみかける。大衆心理?人がたくさんいるし店舗も広いから目立たないような気がするから?

マナーとか常識とかいう前に、「恥じ」という感覚がないのだろうな。
昔はよく親やばーちゃんに言われましたよ。「世間体が悪い」って。だらしない格好するなとか、女の子が胡座かくんじゃないとか、ごはん食べるときに肘をつくなとか(まぁそれは躾か)若い頃は別に世間体なんてどうでもいいじゃん!と思ってたんですけど。そんな狭い世界で人の顔色窺ったりしても意味ないわ!なんて。でも今では、あなたも社会の共同体の一部であるのだと自覚しなさいということなんだろうな、と理解してます。

「恥じ」ってそこには必ず他者の存在があるわけだよね。他人の目に映る自分の姿を想像できるから生まれてくる感情で。あるていど自らの姿を客観的に捉えようとする視点がある。だから、そういう「恥じ」を感じない、もしくは一般より乖離してしまってる人って、物事を客観的に捉えようとしない、自分を集団の中に置いて比較したり考えたりしない人なんだろうね。自己中心でもあるし、他者を自分に置き換えることができない、わたし思うに、想像力の無い人なんだろうなぁと。
他人は自分とは違う存在である。という認識、自己と他者の差別化という視点に立ってはじめて客観的にものごとを考えることができるんじゃないのかなぁ。
小学校のとき「人を差別するのはよくないことです」と教えられたけど、思考するときの弊害のひとつなんじゃないのかな。人と違うからこそ差別する、差異を認識することができる。自分も相手から見れば違う人間なんだ。じゃぁどこが違うのか、共通点は何か。そこから、ではどうやってつきあおうか、と考えるんじゃないのかなぁ。

そこではなしは最初のどこも同じ景色でつまらない、というはなしに戻ります。他の地域にドライブに行ったとしても、どこも同じようなかんじであるというのは、他人やそれぞれの地域環境に対して、自分とは違うはずであるという客観的な視点にたってものごとを考えたりする機会を損ねているんじゃないのかな。と感じるのです。
地域や地方の独自性や多様性を感じられない環境というのは、想像力を損ねるんじゃないのかと。

うちのばーさん(故人)は目が悪かったにもかかわらず、山のふもとをドライブしてても遠いとこの山を指さし、「あそこにぜんまいが生えてるからちょっと寄ってくれ」などと言い、子供心に感心したものでした。いわゆるキノコ眼ってやつです。(私有地の山に勝手に入って採ったら駄目ですよー)
山の形態、動植物の知識があるから、見えなくても想像できるんでしょう。
そういう自然環境の中で身につく知識や知恵って、これから大切なんじゃないのかなとも思ったりしてます。山菜採りだけじゃなくて。
このあいだの中越地震のときの報道を見ていると、もちろん地殻の関係もあるんだろうけど、同じ地域でも、比較的新しい(といってもおそらく昭和40年以降なのかな)家は半壊しているのに、柱の太い、(おそらく戦前、江戸期〜大正くらいなのかな)昔の木造家屋はびくともしていなかったりするのが映っていた。やっぱり、きちんとした資材を使い、建築技術を持った職人さんがいて、その土地にあわせて作られた家なんだろうな、と感じてました。
あと、無理な土木工事や道路拡張のせいで土砂崩れして、いらない被害が及んだところも無いとはいえないなぁとも。
インフラを作るな、自然を守れ、ということじゃなくて、もっと、各地域の条件に合わせた無理のない工事をするべきなんじゃないのか?と。ほとんど交通量のない過疎に、山河をけずってまで徒らにばかでかい道路を作り、土砂崩れや、河川の氾濫の危険性をあげていることになんのイミがあるのか。あ、はなしズレたけど。

他者に対する想像力の欠如はそういう日本人が本来もっていた力を奪い、先達が作り残してくれた、文化や美徳というものに思いを馳せ、感謝し、守ろうとしていかないことにもつながってくるのじゃないのかな。もちろん犯罪にも。
posted by きゅー at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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